昭和46年01月20日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
ここのところを、根本のところから分からせて頂くために、私は立教神伝を分からせて貰わにゃいかんと思うですね。立教神伝の真意と言うか、そこんところを分からせて貰う。立教神伝を読んでみましょう。立教神伝。この弊切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし農業へ出、人が願い出呼びに来、もどり願いがすみ、また農へ出呼びに来もどり。
願いがすみまた農へ出、またも呼びに来農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相なり。なんと家業をやめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。
此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き。と、これは天地の親神様が、教祖金光大神に、神頼み、お頼みになられた、いわばお言葉です。そこで、ここの、お百姓をなさりながらお取次をなさっておられる。
それでは、参って来た者も困るし、お前も困る、双方が困るのだと。そこで何ともうお取次専一に、いわば専念してくれよと、言うておられる。奥様にも家内ももう後家になったと思うて、所謂死んだと思うて欲を放してと、こういう風に言うておられる。ですからそこにはですねもうちゃん、生活の保証というものは、もう立てられてあるという事が分かります。ま、お百姓しておられる方に、お百姓止めろと言われる。
まぁだ教祖の神様、四十六歳のお年ですからまだ若い。まぁいうな働き盛り。それを四十二歳のあのご大患、先日お話しました、金光大神が石鎚の神様からこの家の主人に、今日び金神に無礼ありと仰った、ああいう神様と問答がありました。あの時のことをここでは言っておられる訳ですね。四十二歳の年には病気で医師も手を放したというほどしの事。そしてこうして健康にならせて頂いて、段々信心して、信心のおかげを頂いて、人が段々、尋ねて来るようになった。
それは百姓片手間では双方の差支えに相なるから、何と家業をやめてくれんかと。ですから、家業をやめてくれという所には、もう生活の保証も私はなさっておられると思います。飲まず食わずで出来る筈もありませんから。けれどもそこには只条件がないという事です。所謂死んだと思うてというほどしの、いわば決意がなされなければ、とてもそれを「はい」と承られる事は出来なかったであろうとこう思う。
そこで教祖様が体験なさったことは、どういう事であっただろうかとこう思うのです。それは食べさせねばおかぬ、着させねばおかぬと言った様な働きがね、段々始って来たことをご自身は、そういう悟りをなさって行かれたのではなかろうかとこう思います。金光様の取次をさせて貰うのに、もう愈々世の中のすたり者とか、もう無い命を助かったとか、もう自分というものに、ぎりぎりある意味に於いて、見切りをつけた人でなからなければ務まらんと言われておるのも、そういう事ではなかろうかと思う。
あれもしてみた是もやってみたけれども、もう自分の知恵とか力ではどうにも出来ないところまで、所謂追い詰められた人。そして自分の言わば無力さ加減というか、そういうものに辟易とするほどに、人間廃業したいほどしに、自分という者を思い極めた所から。そういう私は所に立ち至った所から、本当の意味に於いての、神の商法に使う事のない取次が出来る。いわゆる無条件の取次が出来る。
無条件の奉仕が出来る様になるんだとこう思うんです。皆さんもご承知でしょうが、先年亡くなられました、高橋正雄という偉い先生が居られましたね。教学の大家である。大変に頭の良いお方です。もう早稲田出ですけれども、早稲田の大学が始まってから、この人ほどしの頭の良い人はなかったと言われる位に頭の良い方であったね。大変難しい哲学なんかも修められた。
その方が三十一歳でしたかね、三十一歳ぐらいの時にある事に行き詰られて、所謂人間の知恵力ではどうにも出来ないものを、そこに感じ取られる事になって、いろんな修行に入られた。そこから感じ取られたのが、所謂我無力であるという事と同時にです、世の中には神様が生かさなければおかんと。もう生かさなければおかんと言う働きが、止むにやまれん働きになって現れて来る事を、悟られたとこう言うのです。
ですからそこの所が、悟りが出来る時にですね、何もその食うためとか、商法にするとかと言う事はなくっても良い事であり、又は良い事よりもその事の方が、愈々有難い尊い事であるという事が分からせて頂いての事です。だから是はまぁいうならば、お取次者に対する御理解で御座いましょうね。私は本当にそう思うです。
取分け金光様の先生でもするという者は、自分では、どうにも出来ないという言わば食い詰者。また自分の力にある意味で見限りを着けた者。そこに本当の助かり、所謂世の中には生かさなければおかん、そういう屑の子、そういうどうにも出来ないほどしの者でもです。神様が生かさなければおかんという働きを現わして下さるのだから、というそういう物が生れて来る。
そこから私は真の救いというか、助かりというか、自分自身が助かる。成程自分には力はない。いうなれば障子一重がままならぬ人の身であるという事を、自分の力量からその自分の力量という物を、考えて見れば見るほど、自分で何にも出来ないことが分かって来る。だから商売に行き詰ってどうにも出来ないもう愈々、どうにも出来ないと言う事を感じとった人などね。
もう無い命を助けて貰うたとか、もう自分で自分という者が、それこそ恨めしいほどになって来たとこう言う。という様なところからです、私は本当の取次者という者が出来る。だからここで思う事は、ほんなら取次者でなからなければ、本当の助かりはないかと言うとです。だからそこのところが私はこの教えだとこう思うです。お互い御教えを頂かせて貰うてです、そこんところから助かって行く。
最後の立教神伝のところに神も助かり、氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行きと。ここんところが、いわゆる、神様の最後の願いのところだとこう思うのです。所謂、神様と氏子とが一緒に所謂信心共栄、共に栄えて行こうという事が、神様の願いであり。氏子繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。
あなたのおかげを頂かなければ、立ち行かん私だという事と同時に、神様もまたお前あっての神だと、神様を言わしめるほどしのもの。例えば自分に何の力もない、無力の私であると言う事を分からせて貰うところから、そこにはね所謂、神様のいわば生かさなければおかんという働きが始まることを分からせて貰う。そこが分かるところから、我情我欲というものを捨てて良い事になる。
我情我欲をせんでも、神様は食べさせて下さるんだ、着せて下さるんだ住まわせて下さるんだと、まぁ衣食住なら衣食住の事でも、神様がちゃんとして下さるんだと。だからそこに商売気を出さなくっても、欲を出さなくても良いんだと言う所が出来て来る。只々神様の心に添い奉る生き方になりさえすれば良いという事になって来る。そういう生き方になってこんとね、神様は助かって下さらない。そこから神も助かり氏子も立ち行くという道が開けて来る。
しかも末々繁盛しもう繁盛の一途でしかないという道が、はっきり開けて来る。だから神を商法にしてはならない等と、もう商法にでもする様な事ではです、もう全然おかげが本当の事になってこないと言う事を分からせて貰い。あちらの教会はなかなか御比礼が立ちよるけん自分もいっちょ、金光様の先生になろうと言った様なものであっては、良かろうはずがないという事です。段々信心をさせて頂き分からせて頂いて、それは病気をしなくても、根限りの貧乏しなくってもです。
段々信心を分からせて頂くと、そこんところが分かって来る。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだ。そんなら自分の知恵力を、幾ら凝視してみたところでです。大したことはない。いわゆる神様のお心任せにならせて貰うというか、神様のお心にかなう生き方だけを、一生懸命、信心させて頂けばです。商売をする者の上には、商売がいよいよ、繁盛のおかげになって行くであろう。
百姓する人の上には、よりよい農作物が出来る様なおかげにもなって来るであろう。家庭が不和であるところの家では、いよいよ円満になって行くおかげ、そういうお繰り合わせが頂けるという事になる。ここでね、私は今年の高い合楽教会の看板の裏に、毎年書きなおさせて貰いますね。去年は世のお役に立たせて頂こうという、世のお役に立たせて下さい、という祈りですね。その言葉があそこに書いてありますが。
今年もあそこを書き替えさせて貰おうとこう思う。それで昨日こういう意味の事を書かせて頂こうとこう思った。私共の祈りが世界中に広がる働きを現わし給えと。私共の祈りが、世界中に広がる働きを現わし給え。だからこれは今日私が申しますところが分からないとですね。私共の祈りが商売繁盛のおかげを頂かせて下さいという事ばっかり祈っておるとしたり、まぁいうなら、我情我欲の事だけを願っておる事の祈りが、世界中に広がったら大変である。
だから私共の祈りそのものがね、天地の親神様の、いうならば、真に通うておるというか、全人類の者が、そういう祈りを持たせて頂くほどしの働きになってきたら、世界の平和がそこに約束される。世界総氏子の助かりがそこに実を結んで行く働きになって行く事であろうというほどしの、私は願いでなからなければならんことが分かります。ですから皆さんがですよ私共の祈りが世界中に広がる働きを現わし給えと。
そこには神の願いがそのまま、私共の願いであるというほどしのところまで高められなければならないという事。でなかったら、書かれない。それにはいよいよね、私共がです、私共のいわゆる時々皆さん、思われる事はないですか。もう自分で自分が恨めしいくらい。まぁ何と自分は無気力な大人であろうかとか、何と無力な者であろうかとかとか。どうにも出来ないじゃないか自分ではと。
もう自分で自分を投げ出したい様な事がありましょうが。誰しもある事だと思う。そういう例えば思いというものがですね、神様へ向けられる時に、そこに神様の救いの手というかね、助かりというかそれはどういう事かと言うと、自分の様な者でも、神様は見捨て給わないという事です。自分の様な者でも神様は見捨て給うどころか、それでもやはり食べさせなければおかん、着せてやらなければおかん、そういう働きがあることを、そういう時によく分からせて頂くんです。
ですからその神の手にすがりついて行く所に、その人の助かりがある。そこに今まで思い煩っておった我情も無くなってくる我欲も無くなってくる。只我が身は神徳の中に生かされてある、その喜びの中に御用が出来るという様な、御用のあり方にならせて頂くならばです何も神を商法に使わなくても、駆け引きの材料に使わなくても又は我情我欲の事を願わなくても。私共が幸せになって行く事の為に必要な全ての者がです。
神様が与えねばおかんという働きを以って、与えて下さると言う事を、分からせて貰うという事です。そこの働きが私はその働きを受けて行く時、その働きを分かって行くという事が信心である。昨日私は学院に今行っております、只今学院生が、三人行っております。その中の一人である、久富先生の三番目の息子、久富弘道君が言っております。まぁ教師父親がああして合楽で、長い間おかげを頂いておるから、自分も父親の跡継ぎをしようといった様な気持ではさらさらなかった。
まぁいうならば自分の生き方が、如何にお粗末であったか、これではもう行き詰るばかりだ、どうにもこうにも、手も足も出らんというところに立ち至った。そこから父親の信心によって、ほんならここで修行する事になり、御本部行きをする事になって来た。まぁこれは誰も知りません私だけしか、私がここで握っとる訳ですけれども。今日は皆さんにも聞いて頂こうと思う。おかげを受けておる話だから、聞いて頂こうと思うんですけれどもね。この前試験休みで三人帰って参りました。
その前に受け持ちの担当の先生から、手紙が参りました長々と。ついては久富弘道君の事ですがと言うて書いてある事がです。非常に好青年であるし人物も良いですけれども、この男はもうお道の教師を志すという意思が、全然ないものと思いますと書いてある。一学期の頃はまぁ真面目にやっておったけれども、二学期に入りましたら全然第一ね、朝参りをしない。ついて行かない。次にはね教室にも出ない授業も受けない。
これは手紙の中に、そう書いてありませんでしたけれども、帰って上野先生に早速その事を言うた。自分な今もう全然そういう意思はないから、朝参りもしよらんし授業にも出よらんとこういう訳です。教室にも出らんとこういう訳。もうそれこそ一見屍の様な毎日を送っている。それを担任の先生だけではない、もう学院中の先生方が、皆んなやっぱ目を付けてもうあれは、だから今の様な状態では卒業させられませんと。
だから親先生であるところの、あなたからよく言い聞かせて下さいと。後一学期だけ本気で頑張らせて貰えば、良いからと言う意味の事が書いてあった。あちらにはやっぱり年をとった方達も行く学院ですからね。中々学問の方は中々点数を稼げない人も、沢山あるらしい。けれども願うところが、道の教師ですからね。信心が本当に出きればそれで所謂、卒業証書は貰えるという学校なんですよねあそこは。
だから何も分からんでも、毎朝の朝の御祈念でも参拝させて貰う、信心を認められたら、卒業は出来るのだけれどもです。頭は良かっても若い者であってもね、そういう意思がない者は、卒業させられんと言うのである。その弘道君から、昨日手紙が参りました。私はそれを読ませて頂いてから、もう本当に涙がボロボロこぼれた。本当の取次者がここに出来て行きよるという事だからなんです。それを一つ聞いて頂きます。
拝啓ご心配ばかりおかけして申し訳ありません。私にはこういう親先生を頂いている、素晴らしい方を、親先生と頂かせて貰っているという安心感からでしょうか、何事にも過ぎてしまい、あるいは至らなかったりながら、自身に慢心しておりました。その挙句には自分には不本意ながら。親先生をくだらない事で煩わしてしまっております。どうかお許しください。やっと分かった様な気がします。
何をするにも親先生の祈りの中で、喜んで頂ける事を心掛けているつもりの者が、いつの間にかその事が忘れられていたり、その心が足りなかったり、考えて見れば実に恨めしい自分自身である。そういう自分を見つめるたびに、この難儀とでも言うのでしょうか。この上もなく深い巡りを背負った自分を救って頂ける方は、親先生の御神徳以外にはない。親先生の元に居るからこそこうして、今の私があるのだという事が改めて感じ取らせて頂いております。
今三学期は言うまでもなく長い、これからの私の生き方の全ての上に、この事をとらえ本当に実意の上で、それを進めさせて頂きたいと願っております。どうか勝手極まる私の思いでありますが神の願いに添え、親先生の思いに添える自分が理想であります。信心の上で人間的に、本当にまだ未熟な私を真の道の軌道にお導き下さいます様お願い致します。今の私には親先生以外、お縋りする方は認め得ません。
今年は大きなおかげの頂けれると言われる、合楽の教会の真を求めて、真剣に取り組みます。幾ら教えても分からない時はどなって下さい。三十歳に近い私でありますが、親先生の元では、子供同然であることを恥ずかしくは思いません。御神意の中に進められる、合楽の信心を頂けれる事に感謝いたします。親奥様若先生共々にご健勝にあられんことを、未熟ながらお祈り申し上げます。
私がこの最後にですね、未熟ながらと私共の事を祈っておる、そこんところを読ませて頂く時にもう声が出んほど私は感動しました。自分と言う者がもう恨めしいほどに、どうしてこげな風に所謂、久富家の巡りなんですよ。そういう巡りをひっかろうておる自分がね、もう恨めしいと言うんです。そこに所謂未熟ながらとこう、最後に結んでおります、その辺の所をね、思わせて頂く時に、愈々例えば今日申しますね。
もう自分の様な者はもうとにかく、どうにも仕様がない者だと。もう神様と親先生に救うて頂くより、拾うて貰うより他にはないのだと。もう見極めておるところですね。その見極めが付いたところから、本当の取次ものが私は生まれるという風に思うんです。学院に帰ります前の前の日でした。レポートをみんな書いていかなければならん。だから私は三人の修行生に、書いて持って来いと。
そしたら三人だけは私の控えに呼びましてね。私は学院からそういう手紙を受けておる事は、久富君には全然話しませんでした。何故かと言うとですね、もうこちらへ帰りますと、翌日ぐらいからのその態度が、もう非常に違っておったからです。第一もう朝の三時半ごろにはおかげを頂いてから、私をそこに迎えに出てくれるんですもの。一日の御用が所謂充実した御用が出来ている。
所謂本部から受けたそれとは全然違う訳なんです。だから私は黙って見ておりましたら、益々その思いがそういう、只私の目の前だけだと言った様なものではない事が感じ取られましたから。勿論神様にお願い致します。そしてあちらに帰ります前々日に三人を呼んでそれぞれの、作成しておりますその作文を読ませて頂きましてです。久富君がこう言うんですよ。丁度その時に久富さんがお茶を持って入って来て下さいました。
そしたら繁雄っちゃま、あぁたが先日書いておられる、一月間私の御用をさせて頂かれた時の、書いたものを読ませて頂いたんですけれども。おっちゃまあれば私に下さいとこう言う。あれを私のものにしたい。私は今度合楽に帰らせて頂いてですね、あの内容をおっちゃまほどの、感受性を以ってではないけれども、もう本当に嫌と言うほど感じましたち。毎朝ここへ出てくるのがもう楽しみで。
実は幹三郎君が先生のお伴をして、ここに出て見える時には、もう私は幹三郎君が羨ましゅうして、羨ましゅうしてと言うてから涙をこぼしました。 ですから私は後一学期じゃけん頑張らにゃいかんぞ、学校からこげな事を言うて来とるぞなんて、もう言わんで良いと思いました。私は本当に信心させて頂く者が、この九十五節と言うのは、取次者に対して下さってあるみ教えですけれども。
取次者であろうが皆が矢張りおかげを受けなければならん、お徳を受けなければならん。ためには勿論神を商法なんていうのは、私の様な、屑の屑の、屑の子をです。拾いあげて下さった神様に対してです、神恩報謝の生活をさせて貰わなければならないと、腹が決まるところから、生かさなければおかん、助けなければおかんと言う働きを、感じとらせて頂く事が出来る。それが、信心なんだ。
ですから私共が我情を言うことも、我欲を言う事も要らなくなってくるのです。そこまでね信心は私は、高められていかなければいけないと思うんです。ただ枝葉の所の、只病気が治ります様に、こうと言うことも願わなければなりません。願う事によって神様のいわば、働きを知る事になる訳でございますから、神様の本当の働きを知ると言う事はです。私共の願いが私共の祈りが、全世界の人達の上にまでです、広めていけれる事の出来れるほどしの内容。
私共の祈りが世界中に広がるそういう働きを現わし給え。そういう私は願いこそがです。立教神伝の最後のところにあります様にです。神も助かり氏子も立ち行くあいよかけよで立ち行き、末々親にかかり子にかかりと仰る。または繁盛いたしと仰り、その繁盛して行くという事。私共が本当に繁盛して行くという事が、神の繁盛にも神の喜びにも繋がるというものでなからなければならないという事。
そういう根本になるところをです。ぎりぎりの自分という者を見極めることだ。自分という者を分からせて頂くことだと思うのです。それぞれに、からわせて頂いておる十字架とでも申しましょうか、ここでは弘道君が言っておる様にです。恨めしい自分で自分の心が恨めしいと、これを難儀とでも申しましょうかという意味で言っておりますが、これが、久富の家の巡りなのだ。
これで兄弟達も皆んな苦しんでおるのだ。自分ではどうにも出来ない恨めしい心。それを助けて下さるのは親先生より他に、親先生の御神徳による外はない。神様のお働きによること以外には出来ない事が分かって来た。私に合楽の教会にはですね、そういう人でもです、それでも助かりたいと言う願いがある限りです。弘道君が今度十何日間か、こちらに帰って来ておる間にです。
そういう合楽教会の中に起こっておる、一つの働きの中にです。自分の心を又改めて見直させて貰うて、ここに縋るより他にはないという様な、新たな修行精神と言うか、そういう信心がまた芽を出して来たという。そういう働きがね、合楽の教会のお広前には何時もがあっておるという気が致します。それがどういう事かと言うと、救わなければおかんという働き助けねばおかんという働きが。
このお広前に一杯あるという事なんです。そういう働きを、私共が受けて立たせて貰う信心。神の願いを受けて立たせて貰う信心。その一番受けるのに、都合のよい心がです。いよいよ自分のいわば、無力さ加減というものを分からせて頂くところから、その事がはっきり頂けてくるとこう思うのです。どうぞ一つ私はこの、御理解九十五節を、ちょいちょい頂きますよ。
これは大体ご信者さん方に説く御理解でもないと思うし。もう説き様のないほどしに、ここ九十五節は説いたんです。けども今日はまた改めてね、立教神伝を引用してのと、弘道君の本当に自分自身が、これから助かって行こうとする姿勢と言うかね。そういうものがほんならここの帰って来ておる、僅かな間に、そういう姿勢が作らなければおられないほどしの働きに触れておるという事。
ですから私共はその心であれば、ここにはそういう、おかげを下さろうとする、そういう働きがね、ここには一杯渦巻くようにそういう働きを渦巻いておるという事。その働きに、私共が、身をゆだねさせて頂いての信心である時にです。どうぞ神様私共の祈りが、全人類の祈りが、世界中に広がって行く働きを、そういう働きを現わして下さいと祈らなければおられない事になってくるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。